いそいそ/文学部生の短歌と日記

短歌とそのほかです

2018/12/09

今日は昼前には起きた。朝の四時に寝たからだと思った。しかし久しぶりにぐっすり寝られた。最近はなぜだか知らないけれど、どんなに寝ようとしても絶対に8時に目覚める体になってしまっていた。さらにその寝起きはなんだか追いかけ回されたその果てで目覚めるような、切迫したものだったので、寝坊の心配がないとはいえ嫌なものだった。だから朝遅く起きても後悔はしなかった。

起きてからは簡単に食事をして、ゆったり昼を過ごした。冬場はリビングにタオルケットが置いてある。それを頭までかぶっていた。そのうちに足が冷えてきたから、もこもこの靴下をおろしてきて、履いた。それで、夕方からの部活までずっとごろごろしていた。

そして部活に行った。今日は大学の新聞部が取材に来る日で、一時間ほど取材を受けた。記者の方は一人で来た。男だった。一対一の対談形式とは聞いていたけれど、取材風景の写真などは要らないらしい。だから一人で来た。でも潔い気がした。全く知らない部活、しかも体育会系の部活に、一人でお邪魔するのは僕にはできない。話してわかったことなのだが、彼はずっと文科系の部活をやってきたらしい。ますますすごいと思った。そしてそんな彼に照らして僕は随分小心者だと思った。僕の声を録音しながら、メモを取りながら、取材は進んだ。メモの字が走り書きでかっこよかった。彼のノートからは、僕の回答を予想して、その次の質問を作ってきていることがうかがえたが、僕は予想外の答えを言ったようで、途中少し驚いたようだった。しかし会話は途切れず楽しく話ができた。取材はそのうちに終わって、写真を撮って解散した。別れ際、お互いに「ありがとうございました」と言った。こんな短時間でも、すこし別れるのが惜しい気がした。僕は人とお別れをするのが苦手なのである。部活もそのうちに終わった。

帰りの電車で、隣に座ったおじさんに話しかけられた。聞けば40年前に弓道をやっていたそうだ。弓を持って歩いていると話しかけられることがよくある。また楽しく会話をした。おじさんは「じゃ、頑張ってください」と言って席を立った。僕はまた寂しいような気がした。


今日はする人、させる人という考を知った。もちろんそのままの意味ではない。例えば文学について言えば、文学する人が夏目漱石、文学させる人が安部公房であるらしい。なるほどと思った。前者は閉じこもり、深化型であり、後者は開放的、啓発型ということであろう。良い分析だと思った。前者の話を聞けば、完結した世界なので、全てが済む。それで良いなら良いのだが、前者の欠陥は自分の入り込む余地のないところである。宗教に近いと思った。後者はと言えば、これは人を選ぶだろうと思う。知りたい人にとっては後者型は有り難いが、知りたくない人にとってはただうわべをかすめて、わからぬまま終ってしまう。僕はどちらともつかないようだった。どころかその真ん中にいると思った。そういえば最近、もはや二項対立でものは語れないという考にも触れた。そうかもしれぬ。この考については覚えていれば後日触れたい。

今日は、こんなことを考えた。

夕飯は麻婆春雨とご飯と味噌汁だった。春雨とご飯は性質が一緒だと思った。